美しい日本の、優れた私  早速、と言おうか直前の記事に反応があった。 腹を切れだなんて書いて本当に自殺してしまったらどうするんですか、と、 これはzak_mustangを、訴えられますよ、と、これは僕を、それぞれ心配してくれているらしい。  zak_mustangについては何の問題もない。 本人も言うとおりこういう気狂いは絶対に自分からは死なない。 ゆうに、あと100年は生き恥を晒しつづけるだろう。 また僕についてもこれは同じで、気狂いは公共の福祉の観点からその権利が厳しく制限されるらしいのだ。 それについてはひとことあるのだが、とにかく zak_mustangはそう主張してやまない。 そして zak_mustangは気狂いである。 それこそが「気狂い」の「気狂い」たる所以ではあるが、自分で自分の自由を制限してくれと、 権利を自ら放棄しているのだ。訴訟など不可能である。 もっとも、zak_mustangが最初から何か権利を有していたのかは怪しい。  考えることをやめたとき、人間は「大衆」になる。 出口が見つからなくても、考えることによって人間は人間でいられる。 人間ではないzak_mustangはそれをしてこなかった。 人間にとってもっとも必要な「想像」と「思考」を、「感情移入」と「涙」に置き換えて生きてきたのだ。               ☆  考える余裕を与えられない日本で僕たちは育った。 自分の内で何かを考え、想像することをせず、外側に感情移入をする、それが美しい日本の、優れたメンタリティだと教え込まれた。  もとから「個」のないzak_mustangのような人間が、「他人の気持ち」になって考えるふりをすることは容易いだろう、 が、その資質は、決して美徳ではないのだ。 「個」のない人間は何か支えを欲しがる。ちょっと昔の日本人にとって、それは「会社」だった。 ときにそれはテロリズムであったり、怪しげな宗教であったりもした。 ある人はそれを「正義」と呼ぶのだろう。「美談」と讃える人もあろう。「カネ」だったのがホリエモンだ。大きく「国」である場合もあろう。 しかし、考える個々に立脚してあるのが民主主義である。考えない大衆に立脚するのは何か。  少し考えてみるといい。  本当の支えになるのは「個」である自分の考え方しかない。 Posted by me in 経済・政治・国際 | Permalink トラックバック この記事のトラックバックURL: http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/8800050 この記事へのトラックバック一覧です: 美しい日本の、優れた私: コメント 【引用】 考えることをやめたとき、人間は「大衆」になる。 出口が見つからなくても、考えることによって、人間は人間でいられる。 いや、考えない人の個々の問題でもないんじゃないか。 考える余裕を与えられない日常に、我々は住んでいるんじゃあなかろうか。 azuncha03 @「日々雑感」 名前: ぼく | February 23, 2006 03:23 PM どわあ。引用していただけるとは。 「汗顔の至り」ってやつですね。 なんつーか、こういう手合いはいくらでもいることだし、いいんじゃないでしょうか。 むしろ喜んでもいいくらいかも…彼のようにエキセントリックな主張ができる社会にいられることを。 名前: azuncha03 | February 23, 2006 05:17 PM  まぁ、この人のいちばんおかしなところは、キチガイは危険だから権利を制限すべし、と言っているくせに、 そのキチガイが犯罪者となったときは一転、「通常の法律で裁くべし」としているところです。  一般人(?)と同じ法律を適用するなら、権利の制限などあってはならないし、 制限をするならば、裁くときも特別扱いというのが筋のはず。  現にこの人のするような差別・偏見という制限がキチガイ(しかしこの言い方もどうかと思いますが)には課せられているわけで、 「キチガイだろうが何だろうが悪いやつは殺せ!」と叫ぶなら、先ず彼ら自身が率先して色眼鏡をはずすべきなのです。 名前: ぼく | February 24, 2006 09:09 PM