からからから、と立ち食い蕎麦屋の引き戸を開けて入ってきたのは、セーラー服の少女だった。ぼさぼさの薄茶色の髪が印象的だ。

 店主が無愛想に、注文は、と訊く。

 少女は無表情で、掛蕎麦、葱抜き、と答える。

 それほど間を置かずに注文の品が出された。少女は傍らの小瓶を蕎麦の上に持っていくと、ぱっ、ぱっ、ぱっ、と一味唐辛子をかけていく。ただその量が尋常ではない。やがて蕎麦は真っ赤になった。それを箸で混ぜると、赤い蕎麦をすすり始める。

 店内には店主を除けば彼女一人。彼女の蕎麦をすする音だけが店内に響いている。蕎麦があらかたなくなると、今度はどんぶりを持ってつゆを飲み始めた。一度も息継ぎをせずにつゆを飲み干すと、彼女はどんぶりを置いた。当たり前だが顔が汗ばんでいる。ハンカチで汗を拭くと、彼女は財布を取り出した。

 それを見て、いらねえよ、と店主は短く言って、さっ、とどんぶりを片付けた。

 それを見て、ごちそうさま、と少女は短く言って、店を出た。

 

 彼女の父は辛党だった。蕎麦や饂飩、丼物には必ず唐辛子を満遍なくふりかけた。

 彼女の母は葱が苦手だった。店で食事をする時は必ず、葱は抜いてください、と頼んだ。

 二人がいなくなった時、少女は草原の中で二人が炎に包まれる様を見ていた。

 涙が出なかったほど、それは、一瞬に起きた。

 草原で、ぼうっ、としている、薄茶色の髪になった彼女()を拾ったのは、当時兵だった今の店主だった。

 彼は少女を安全地域まで連れていくと、そのまま去った。

 その数年後、少女は偶々立ち食い蕎麦屋を開いた彼を見つけた。

 彼は少女を覚えていたが、声をかけなかった。

 少女も彼を覚えていたが、声はかけなかった。

 ただ、掛蕎麦を一杯、葱抜きで注文した。

 以来彼女は、戦地へ出張する前と出張した後、必ずここの掛蕎麦を食べている。

 

(あおい)、聞こえる? 応答して」

 耳に付けた無線機から声がした。

「こちら、葵」

「救援信号は罠だった。誰でもいいから私たちを捕まえるつもりだったみたい。なかなか巻けないから、助けて欲しいの。もうすぐあなたの下を通るわ」

「了解」

 少女――(もり) (あおい)は、すぐに読んでいた文庫本を放って寝転んでいた体を起こすと、傍に置いておいた相棒、ヘカートU()を手に取った。待機していたビルの廃墟の屋上から銃身を突き出す()と、スコープに利き目を当てる。やがて車両のエンジン音と散発的に銃声が聞こえてきた。

 常人には捉えきれない速度で走る白百合が三人。その後方、数百メートル先に、敵兵士が乗った軍用ジープが二台、彼女たちを追跡している。時折、足を止めようと車載のMG3()を撃つが、素早い彼女たちには全く当たらない。

 白百合が、葵がいるビルを通り過ぎ、二台のジープが彼女の有効射程範囲内に侵入すると、まず葵は前方のジープの左前方のタイヤを撃ち抜いた。続いて後方のジープも同様に対処する。これで彼らが白百合に追いつくことはできなくなった。敵兵士たちは急いでジープから降りて、それぞれ遮蔽物に身を隠す。膠着状態。

 どの位の時間が経っただろうか。時計を確認していない葵に無線が入った。

「あなたを除く全白百合隊員、帰還したわ。あなたも帰還しなさい」

「了解、姉様」

 無感情な声で応答する。彼女は敵兵士に向けて、わざとはずして一発、また一発発砲した。これで彼女の位置は彼らに知られた()

 兵士の一人が、RPG()を彼女がいるビルに向けて発射した()。この砲撃は予想していたこと。ならば彼女にとって、飛んでくるロケット弾を迎撃することは容易いことだ。一発で撃ち落す。続けてもう一発発射された。これも撃ち落す。

 三発目はなかった。続けて葵は、敵のいる場所に着くまでの時間を考慮して設定したタイマー付催涙弾と煙幕弾を三つずつ放り投げた。

 敵が慌てている間に素早く所持品を片付けると、狙撃主は現場を去った――。

 

「注文は」

「掛蕎麦。葱抜き」

 注文の品が前に出される。一味唐辛子を満遍なくかけ、箸で混ぜて食べ始める。

 ああ、帰ってきたんだ、と葵は実感した。

 

 彼女の疲れをとるには、一杯の掛蕎麦があれば充分である。

 

 

 

 

 

※1……科学的見地からすると、強烈な精神的ショックを受けた時、毛髪の色素が抜けるより先に脱毛して禿げる方が先だそうだが、キャラクターの設定上、流していただきたい。

 

※2……FNモデル・ヘカートUロング・レンジ・スナイパー・ライフル。装弾数は7発+薬室に1発。ベルギー製の遠距離狙撃ライフル。この世界では銃器の類は、外観はモデルガン、内の機構は入手した資料を基に復元。また、白百合用に改良も施してある、とする。

 

※3……狙撃の場合、銃身やストックにかかる振動、温度差による膨張・収縮、引き金にかかる力や安定性、風向や湿度といった環境など、様々な要素が絡み合うので対象が遠ければ遠いほど命中率は落ち、誤差は大きくなる。彼女の場合、温度差や環境による誤差は訓練で、振動や安定性による誤差は強化された筋力で補っている。

 

※4……モデルMG3マシンガン。ドイツ製の汎用重機関銃。連射速度は毎分900発。

 

※5……本来であれば、狙撃手にとって自分がいる場所を教えることは致命傷だ。だが彼女の目的は、あえて自分の居場所を教えることで、敵の注意を自分に向けさせることにある。

 

※6……RPG7。ソ連製の携帯用ロケットランチャー。製造・量産が比較的容易にできるため、現実世界でも世界各地で使用されている。

 

※7……屋上では高すぎるため、ビルそのものを倒壊させるために水平に発射した、とする。